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陳勝・呉広の乱

JUGEMテーマ:歴史

 

 

紀元前210年、史上初めて中国を統一した秦の始皇帝が死去すると、その末子・胡亥が兄・扶蘇を謀殺して秦の皇帝となる。

 

始皇帝

 

 

紀元前209年、陳勝と呉広は辺境守備のため強制的に徴兵された農民900名と共に、漁陽(現在の北京市北部の密雲県)へと向かっていた。

 

 

しかしその道中で大雨に遭って道が水没し、期日までに漁陽へ着く事が不可能になる。

 

秦の法ではいかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首であった。

 

期日までに着けない、そう判断した時点で陳勝と呉広は反乱を決意し、引率の役人を殺すことを計画する。

 

この陳勝と呉広の決断は、厳罰が小さな違反を大きな事件に変え治安を乱す一つの例として、後世の人類に伝えることになっていく。

 

 

 

呉広は引率の役人二人が酒に酔っている時に、あえて聴こえるように「俺は逃げる」と繰り返し言う。

酒に酔った役人は激怒して呉広を鞭で打つ。

 

その様子に周囲の者達は役人への反感を募らせ、じりじりと近寄って来た。呉広は役人の剣を奪って一人を斬り殺すと、すぐさま陳勝が加勢してもう一人を殺す。

 

 

そして陳勝は演説を始めた。

 

「俺たちは大雨に降られ期日には間に合わない。どうせ死ぬのならば、名を残して死ぬべきだ。もとより同じ人間である王侯将相に我々の命を奪う権利はないはずだ。」

 

これを聴いた一同は一斉に同意を示す。

 

 

 

 

以降、陳勝は扶蘇、呉広は項燕を名乗るようになる。

 

扶蘇は弟・胡亥(現皇帝)に殺された悲劇の皇太子で、項燕は楚(秦が中国統一する以前の強国)の英雄で、共に庶民からの人気が高く、その死が行き渡っていない者も多かった。

 

 

 

陳勝・呉広の反秦軍は、秦の圧政に不満を持つ者達を巻き込んでその規模をどんどん拡大させると、陳(現在の河南省淮陽県)を陥落させ、ここを本拠地に定め、張楚を建国すると、陳勝が王に即位する。

 

 

この噂が広まると、それまで秦の圧制に耐えていた各地の人民は地元の役人を血祭にあげて陳勝に呼応した。

 

勢いづいた陳勝は呉広に諸将を統率させ、軍事に練達している周章(しゅうしょう)という人物を採用し、破竹の進軍を開始する。

 

章邯

 

周章は進軍しながら兵を増やして行き、函谷関(河南省の関所で難攻不落の拠点)を突破するが、秦の将軍・章邯(しょうかん)に敗れた。

 

 

周章は敗走後も各地で防戦をしぶとく繰り返すが、最終的に自決し、このあたりから張楚の勢いにかげりが見え始める。

 

 

 

 

呉広はケイ陽(現在の河南省ケイ陽市)を攻めていたが、周章が敗れると、秦軍は呉広の軍に集中して迫って来た。

呉広の部下であった田臧らは、呉広は兵の使い方が下手だと主張し、呉広を殺して指揮権を奪い取るが、田臧らも秦の将軍・章邯に敗れて戦死する。

 

 

 

各地で反秦軍を鎮圧していく章邯は、ついに陳勝の本拠である陳にむかって進軍し、交戦した陳勝の部下達は次々に討ち取られていく。

 

もはや凌ぎ切れないと判断した陳勝は逃亡するが、その道中で自らの御者に殺された。

 

 

 

楚の項梁(項羽の叔父)らは陳勝と連携するつもりであったが、陳勝の死後、反秦の旗手は項梁によって引き継がれる。

 

 

後に項羽と共に秦を滅亡させ、漢王朝を開く劉邦は、秦の圧政に対して最初に立ち上がった陳勝を尊び、その墓所の周辺に民家を置き、代々墓を守らせた。

 

 

 

 

 

 

 

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