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楚の項羽 (「鉅鹿の戦い」でみせた覇王の資質)

JUGEMテーマ:歴史

 

 

項梁は「陳勝・呉広の乱」が起き、秦の圧政に対する反乱が各地へ広がっていくと、身長が9(207センチ)の大男で超人的な怪力の持ち主である甥っ子の項羽を従えて、会稽郡(現在の浙江省紹興市)の役所に乗り込むと、項羽がたった一人で数十名の役人を皆殺しにし、叔父の項梁が会稽の長となり、反秦軍に参加する。

 

項羽

 

その後、反秦軍の有力者となった項梁は、羊飼いに身を落としていた旧楚の懐王(秦の中国統一の流れで権威を失った)の孫を、秦への復讐の象徴として担ぎ出して「懐王」を名乗らせると、反秦軍の名目上のトップにした。

 

 

 

 

「陳勝・呉広の乱」を鎮圧するために秦の首都・咸陽から大軍を率いて出撃した将軍・章邯は次々に反乱を鎮圧し、陳勝・呉広・項梁(項羽の叔父)といった反秦軍の指揮官も死亡した。

 

 

章邯は趙(現在の山西省と河北省の一部)の反乱を鎮圧すべく趙の首都・邯鄲を破壊し、趙王が籠城する鉅鹿城を包囲する。

 

 

 

秦軍に包囲された鉅鹿城に、反秦勢力の盟主となっていた楚は宋義と項羽を派遣した。

 

しかし、総大将の宋義は、圧倒的な大軍である秦軍が勢いに乗っているタイミングはリスクが大きいと判断し、進軍道中で46日間も時間を潰す。

 

 

副将の項羽は、すぐさま秦との決戦を望んでいたため、なかなか戦おうとしない宋義に業を煮やして、項羽は宋義の首を刎ね、諸将には「宋義は秦への恭順を企てたので懐王の命により誅殺した。」と説明して、自身が総大将となって鉅鹿へ進軍した。

 

項羽

 

 

項羽は腹心の英布を先行して鉅鹿に急行させるが、英布は兵力で勝る秦軍に苦戦したため、項羽は黄河を渡ると、三日分の食料だけを残して、残りの物資は船もろとも沈め、三日で決着がつかねば全滅あるのみという状態に味方を追い込んだ。

 

 

結果、項羽の軍は、倍以上の戦力である秦軍20万を撃破する。

秦軍の将軍達は、王離が捕虜となり、蘇角が戦死し、渉間が自害して、章邯も退却を余儀なくされた。

 

 

項羽が兵力で劣りながら、秦の名高い将軍・章邯に勝利したことで、項羽の軍に参加する兵がどんどん増えていき、章邯はその後9度に及ぶ項羽軍との会戦に全て敗北し、最終的に部下の説得に応じた章邯は項羽に降伏する。

 

 

項羽は秦軍の捕虜20万人を生き埋めにして皆殺しにする。

 

 

この時点で秦軍の戦力はほぼ皆無となった。

 

秦による統一以前の中国

 

懐王は項羽ら主力軍にそのまま秦の首都・咸陽まで攻め込むように命じ、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 

 

 

 

 

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