スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |

西楚の覇王と韓信参上

JUGEMテーマ:歴史

 

 

項羽はそのまま利便性の高い咸陽を首都にするか迷うが、故郷に錦を飾るために、楚の彭城(現在の江蘇省徐州市)を首都と定めて、自らを「西楚の覇王」と称した。

 

項羽

 

 

紀元前206年、項羽はお気に入りの諸侯を各地の王にして、思いのままに秦滅亡による領地の分配をおこなう。

 

 

この領地の分配は、秦との戦いでの功績は二の次で、その最たるものとして関中に一番乗りした劉邦に約束の関中の地ではなく、流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えた。

 

 

この漢中が、地図の上で咸陽の左側に位置することから、活躍の場が失われる移動や降格を「左遷」と言うようになったとされている。

 

左下「蜀」のあたりに劉邦は領地を与えられた

 

 

楚の懐王は、咸陽を含む関中を先に平定した方に関中を与えると約束していたので、この約束に従えば関中は劉邦に与えられるはずであったが、項羽は圧倒的な武力を背景に懐王の約束を反故にし、また、飾りに過ぎないにも関わらず意見を言うようになった懐王を、項羽は邪魔になったので暗殺した。

 

 

 

 

韓信

秦をいち早く制圧したものの、辺境の地であった漢中に押し込められた劉邦は、そこで後に天下統一のキーパーソンとなる韓信を得た。

 

蕭何

韓信はもともと項羽軍にいたが、その存在が見向きもされなかったため、活躍の場を求めて劉邦軍へと鞍替えし、その才能を見抜いた蕭何の推挙により、すぐに大将軍となる。

 

 

 

 

 

 

かなり簡略化し、玄人向けではないけれど深い、歴史や伝説などを表現するブログ

 


歴史や伝説の偉人を5行で表現するブログ

 

 

 

| 5.楚漢戦争 (西楚の覇王と韓信参上) | 05:12 | - | - |

10
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--